赤毛のアン

小学生の頃、読書の習慣はなかった。
週一回の時間割の「読書」の時だけ、図書館の本を読んだ。
習い事もたくさんしていたし、何より時間があればドッチボールに明け暮れた日々だった。
本が好きになったのは、中学生になってから。
友人から貸してもらった「星新一」がきっかけだった。
その後は気に入った本に出会うと、その作者の作品を納得いくまで読んだ。
社会人になると、時間が惜しくて通勤時間はもっぱら読書に充てていた。
朝、ラッシュの車内で新聞を広げるサラリーマンの横で、ひたすら文庫本を開いていた。
手元の本を読了してしまうと、15分車内で無駄に過ごすのが嫌で、乗り換え駅渋谷の大盛堂書店で本を購入してから電車に乗った。
朝、乗り越したことも2回ある。
文庫本片手にホームの階段を登ろうとすると、そこに階段はなく、その時ようやく乗り過ごしてしまったことに気付くほど、山﨑豊子の作品にはのめり込んだ
会社で失敗した日には、林真理子の作品に救われた。
昼休み、長編小説の最後がどうしても気になり、昼食の誘いを断って休憩室で読み終えたことがあった。
すぐに仕事に戻らなくてはならず、せっかくの余韻が台無しとなり、その後は読了の場所とタイミングを意識するようになった。
私にとって、年に数回の出張は、最高の読了の機会となった。
あれはいつ、誰が言った言葉だったか。
「元カノがさ、一番好きな本は"赤毛のアン"って言っていた」
その時、会ったこともないその彼女が、素直で真っ直ぐな子なんだろうなぁと想像した。
50歳すぎの先輩が、
「赤毛のアンの映画を見に行く!」
と、目をキラキラさせながら言っていたこともよく覚えている。
ただ、私にとって「赤毛のアン」は、
さぼって先送りにしている宿題のような本だった。
もちろん、読んでいなくても「赤毛のアン」の内容は知っていたし、部分的な文章は目にしていた。
いつか読むべき、いや読まなくてはならない本と思っていたのだか、なかなか読めずにいた。
理由は、分かっていた。
主人公のアンが、とても素直で、困難に立ち向かう勇気をもった、前向きでキラキラしている子だったから。
周りの女の子が「赤毛のアン」を夢中で読んでいる時に、私は一条明の「ひねくれ星の詩」の主人公に同感していた。そんな子だった。
その頃、私は待つことが多かった。
待ちながら、本を読んだ。
そしてふと「赤毛のアン」を読む気になった。
いまさら恥ずかしくて、本にはカバーをかけていた。
時間が読めない研究に一区切りつけて、私が待つ図書館に来た彼は、
「何を読んでいるの?」
と、まるでずっと側にいたような感じで聞いた。
「赤毛のアン」
私は答えながら、相手の反応を探った。
私が警戒した反応を彼は示さず、
机の上にあった小さな折り鶴の方に関心をよせた。
「これ、君が折ったの?」
「そう」
それは読書に飽きた私が、小さな紙切れで何気なく折ったものだった。
「もらってもいい?」
優しく手にとって大事そうにしまう彼の、
そういう繊細な部分が、私は好きだった。
赤毛のアンを読んで、
残念ながら私の心には響かなかった。
完全に時期を逸してしまったのだと痛感した。
先日、NHKで「赤毛のアン」を放映していたので、久しぶりに観た。
そうしたら、すっかり忘れていた数十年も前の、図書館の風景が蘇ってきた。
あの頃は心に響かなかったのに、
「赤毛のアン」は素敵な物語だった。