言えなかった言葉たち

父は挨拶にうるさかった。
小さな頃から、
「知ってる人に会ったら、必ず挨拶しなさい」 と、耳にタコが出来るほど言われた。
だから、小学生の低学年のころ、商店街を通る時には少し緊張した。
こちらが挨拶しても、気付かれないこともあったから、挨拶のタイミングは難しかった。
遠くに知っている人を見つけると、
わざと下を向いたり、横をむいたりして、気付いていないふりをしながら歩き、
すれ違う寸前で
"たった今、気付きました"
って感じで顔をあげ、挨拶をした。
こんな風に気を遣っていたので、とても疲れた。
15、16歳ころになると、
今度は知らない男の人から、からかうようなことを言われたりするようになった。
わざと大きな音を出し、振り向かせて品定めするような、そんな人もいた。
だから、いつも警戒していた。
ある日、土手で犬の散歩をしていると、バイクに乗った男の人から、クラクションを鳴らされた。
無視すると、もう一度クラクションを鳴らされた。
私は、いつものように完全無視を貫いた。
犬の散歩から戻ると、家には久しぶりに親戚のお兄ちゃんが来ていた。
昔から知ってるお兄ちゃんだ。
「こんにちは〜」
と、笑顔で挨拶すると、
「いや〜、さっき挨拶したのに、K子ちゃんから無視されちゃって悲しかったなぁ〜」
と冗談ぽく言われた。
さっきのバイクに乗っていたのは、お兄ちゃんだったのだ。
フルフェイスヘルメットをかぶっていたから、分からなかった。
それを聞いた父は、怒りだした。
「おまえは、挨拶されたのに無視したのか」と。
あの時、
だってお兄ちゃんだとは分からなかったんだよ。
私はね、変な人に声かけられたり、ニヤニヤされたりすることがあるから、いつもいつも警戒しているんだよ。
大変なんだよ。
思春期の叫びを父に言える訳はなかった。
小さい頃も、思春期の頃も、言いたいのに言えないことがたくさんあった。
言い訳したいこともたくさんあった。
言えずにいた「ごめんなさい」も「ありがとう」もたくさんあった。
言えなかった言葉は私の中のどこかに、ずっと残っているような気がする。
だからなのか、ふとした時に昔のことが思い出され、その時に言えなかった言葉を、今の自分が言葉にしている。
「これとそれ、同じに見えるけど、値段が違うのはなんで?」
今では、疑問に思ったことは何でも聞ける。
「あら、今日は大根がこんなにお安いの?」
どうでもいいことも、声に出しちゃう。
「ほんと!お安いわ。私も買います」
私の言葉に、知らない人が答えてくれると、
その日は、とても幸せな一日となるのです