思いのままに

日々徒然

あの時の、名もなきヒーロー

le miel



数年前、


交通トラブルで混み合った電車に乗っていた時のこと。


私は車両のドア近く、吊り革につかまれる場所に位置していて、駅に停車するたびに乗り込んでくる人の波に押されながらも、何とか耐えていた。


次の駅でまた、どどっと人が乗り込んできた。


すると、先頭で乗り込んできた50歳位の、ビシッと身なりを整えた男性が、私の隣に立っていた20歳位の若い男性に、

「腕があたったぞ」

と言ってきた。

(こんなに混んでいるんだから、仕方ないじゃない)


隣の若い男性も男性で、

「わざとじゃありません」

と言って男性を睨みつけている。

(ここは軽く会釈するとか、すみませんでいいじゃない)


他人から見ると些細なことなんだけど、虫のいどころとか、シチュエーションとかで、まぁ、私だって冷静に対応出来ないことはある。


ただ、混んだ車内で不快な状況は、皆同じ。


次の駅で人がどどっと降りた際に、中年の男性も降りたので安堵していると、乗り込む際にわざわざ若い青年の横に来た。

(乗り込む際に先頭だったんだから、反対側に進めばいいじゃない)


二人はお互い睨みをきかせている。


私はこういう場合、静観しているタイプである。


何事も当事者同志の問題。

割って入ってややこしくなる場合が往々にしてあるし、そもそもお節介が大嫌いなのである。




しかしふと、

何十年も前の記憶が蘇ってきた。


ずっと思い出すことなく忘れていた記憶。


私が若い頃に、車内での殴り合いを止めた中年女性の、「驚いたわね」と私に向けた笑顔。



私は隣の若い男性に、

「場所を替わってください」

と静かに言った。


その男性は、

「いいです」

と、無下に言った。


「いいから!」


自分でも驚くほどの語気で、言葉が出た。


若い男性は、しぶしぶ混んでいる車内で私と場所を替わった。


私は中年の男性とも、若い男性とも決して目を合わさず、窓の外を睨みつけるように凝視した。

私に出来ることは、頑張ってもこれだけだった。


ようやく終点駅に着き、中年男性も若い男性も、何ごともなかったように去って行った。



私はいきなり記憶が蘇った、あの時の女性を思い出していた。


あの女性は今どうしているのだろう。

もう、この世にはいないかも知れない。



「あの時のあなたが、また一つ、諍いを止めましたよ」

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