塞翁が馬

私が初めてのアルバイト先に選んだのは、店内の大きなテーブルにいつも素敵な花が飾られていて、流行りのアメリカンポップな曲が流れているお店だった。
高校生の時からお気に入りのお店だった。
初めて◯美ちゃんとシフトが一緒になった日、仕事が終わり荷物置き場を見ると、私の鞄がない。
外からも盗もうと思えば盗める場所だったから、
店主のマダムと一緒にすぐに交番に行くことになった。
戻るまで◯美ちゃんが店番をしてくれると言う。
私が申し訳なく思っていると、
「ぜんぜん大丈夫。
早く行ってきて。お店の方は任せ下さい」
マダムも安心して、私たちは駅前の交番へ急いだ。
鞄に入っていたのは、お財布とハンカチ、ティッシュ、読みかけの単行本。定期券と少しの化粧品だった。
お巡りさんに現金の額を聞かれ、
「千円札一枚と小銭が少し、、、」
と言うのがちょっと恥ずかしかった。
調書の後、私はお店に戻ることなく、マダムが駅まで送ってくれた。
◯美ちゃんにお礼が言えなかったので、すぐその後に予定していた旅行先で小さなお土産を買った。
シフトが一緒になった時に手渡すと、
「ありがとう〜
気を使わなくて良かったのに〜」
と喜んでくれた。
「あの日、帰りが遅くなっちゃったでしょう?
大丈夫だった?」
と聞くと、
「ぜ〜んぜん大丈夫〜
私、門限ないし〜」
と◯美ちゃん。
すると厨房のアルバイト学生から、
「おまえ、お嬢様学校に通っている箱入り娘だけど、おまえの箱は蓋が開いてるからな〜」
と、からかいの声がかかる。
「失礼なー」
忙しい店だけど、こんな雰囲気も大好きだった。
その後、仲間数人で行くから一緒に行かない?とディズニーランドに誘われたのを皮切りに、◯美ちゃんは自分の学校のイベントや仲間内の集まりに誘ってくれるようになった。
◯美の友達は皆さばけていて、学校が違うことなど気にせず、2回目に会った時からは、
「どうも〜」
といったノリで、同じ女子校でも雰囲気が随分違うものだと、何だか居心地が良かった。
私は◯美と、◯美の仲間たちと仲良くなった。
その頃、私は初めてお付き合いをした人がいた。
今思うと、ずっと女子校育ちで、少女マンガの主人公に憧れるような感じでいたから、上手くいくわけはなかった。
ただ初めて好きになった人だったから、振られた時のダメージは大きかった。
本当に悲しくて、涙が溢れてとまらなかった。
「本当に悲しいと"胸が痛い"って言うけれど、実際に胸が痛くなるんだ」
と、実感したのはあの時だった。
学校では、同情の表情で別れた理由を聞きたがる子もいて、何だか辛かった。
そんな時、何も知らない◯美からお誘いの電話がきた。
◯美の声を聞いて、
「私、振られちゃったの」と言うと思わず涙が出た。
◯美は細かいことは一切聞かず、
いつもと変わらない調子で、
「あなたみたいないい子を振るなんで、バカな男だね」
と言うと、
「そんな男はほっときな。私がいくらでもいい人を紹介してあげる。
慶応がいいの?早稲田がいいの?」
◯美独特の慰め方である。
「ともかくさ〜出ておいで。
家にこもっていても良くないからね」
私は目も腫れているし、とても出かけられる気分じゃないと断ったけれど、
「明後日3時、横浜の◯◯で待ってるからね」
「そうそう、そんな男に振られて髪なんか切るんじゃないよ」
そう言うと◯美はすぐに電話を切った。
◯美の電話はいつも要件のみ。
ダラダラ長電話はしない。
電車での別れ際も「じゃぁね」と言った途端、鞄から単行本を出して読み始めている。
そんな子だ。
私は疲れきっていて、電話をかけ直して断る力は残っていなかった。
「明日、電話して断わろう・・・」
私はまたベッドに戻った。
結局、電話出来ないまま約束の日になった。
携帯電話なんて便利なもののない時代、
仕方なく、腫れた目を化粧で隠し、かなり遅刻して約束の場所に着いた。
お店に入ると、離れた席から大きく手を振って◯美が合図する。
席に着くと、そこには2人の男子が座っていた。
「えーこちらが東大の2年生の、えーっと、」
「◯◯です」(男子学生が答える)
「はい、◯◯さんですね。
で、こちらも東大2年生の、えーっと、」
「〇〇です」(もう一人の男子学生が答える)」
私も何とか自己紹介し、まさか知らない人が来るなんて聞いていなかったから、腫れた目を隠すようにずっと下を向いていた。
東大の2年生二人も、とても緊張していて、膝に手を置き、◯美からの質問に答えるばかりで、まるで就活の面接に来た雰囲気だった。
緊張している大学生2人と、失恋したばかりで元気のない私はほとんど喋らず、◯美の声だけが店内に響きわたっていた。
暫く下を向きながら話を聞いていると、◯美は、
「お勉強、頑張ったんですね〜
東大なんてすごいわ〜
お父様はさぞお喜びだったでしょう〜」
と言ったのだ。
私はその言葉を聞いて、思わず下を向きながら笑ってしまった。
笑ったことを気付かれないように、必死にこらえた。
だってそのセリフは、親の知り合いから、
「まぁ、◯◯君、すごいわ〜
お父様、さぞお喜びだったでしょう
って、言われるときのものだもの。
2人の東大生は、耳にタコが出来るほど聞いたであろうその言葉に、それが年下の女の子から発せられた違和感を感じることもなく、小刻みに頭を下げて、これも何度もしたに違いない恐縮の態度で応じていた。
不覚にも、クスッと笑ってしまったことで、私は何だか吹っ切れた気がした。
思うに、
◯美は私との電話を切った後、猛烈な勢いで友人たちに電話をしまくったに違いない。
"だれか、東大生で感じ良さげな人の知り合いいない?"
多分、今日来てくれた東大生も、良く訳が分からず友人に頼まれるがまま、お店に来たんだと思う。
◯美も今日この時まで、どんな人が来るか知らなかったはずだ。
だって、名前も知らなかったんだから。
◯美は約束の日にちまでに、何とか私を励ましたいと奮闘したのだ。
言っておくが、彼女自身は、学校で相手を選ぶ子ではない。
ただ、視野が狭くなっている私に、
「大丈夫なんだよ。世界は広いんだよ」
と、こう言う形で励ましてくれたんだと思う。
あの時のお店も大学生の顔も、もう思い出せない。
けれど、
「お父様はさぞお喜びになったでしょう〜」
と言った◯美の言葉は、声のトーンまではっきり覚えている。
私は鞄を失った代わりに、その何倍も大きなものを得る事ができた。
人生、塞翁が馬だね。